薔薇の名前

〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉
ウンベルト・エーコ薔薇の名前』(河島英昭 訳)より


薔薇の名前』という小説は、中世のキリスト教修道院を舞台にしたミステリです。


被害者が僧なら、犯人も僧。
怪しい人物が僧なら、怪しくない人物も僧。
つまり関係者全員が僧で、探偵までもが僧という異色っぷり。


《ストーリー》
主人公アドソ(見習い修道士)が師ウィリアムとともに訪れたのは、キリスト教世界最大の文書庫を持つ修道院
しかし、そこではひとりの修道僧が不審な死を遂げていた。

修道院長に依頼を受け、調査を開始するウィリアム。
修道院の誇りである文書庫は、誰も立ち入ることの許されない巨大な迷宮だった。事件の鍵は文書庫にあるのか。

そして、謎が謎を呼ぶ連続殺人事件が幕を上げる…。


作者のウンベルトエーコ記号論の学者であるため、この作品には記号論の考えが入ってきているようです。
さらに、キリスト教思想、中世の政治関係などにも言及されています。


けれど、単にミステリとしても素晴らしい作品でした。

凶器や凶器にまつわるトリックも良かったし、
迷宮のように造られた文書庫の中の探険、そして謎ときも面白い。
隠し部屋の名称〈アフリカノ果テ〉というネーミングもハイセンス。またそこへの入り方もユニーク。

全てのミステリファンに薦めたくなる作品でした。


動機の奇抜さも出色しています。
そして何が凄いって、それでいてその動機に説得力があるのが素晴らしい。

先日読んだ、アンチミステリ『虚無への供物』でも動機が奇抜でしたが
奇抜すぎて、宙に浮き過ぎた感がありました(アンチミステリなんだから、それも狙いだったのだろうけど)。


中世を舞台にした小説が好きな人にも、キリスト教を題材にした小説が好きな人にもお薦め。
あと文体も美しい。訳者の功績だと思います。



蛇足ですが・・・
この作品は懐が深くて、細かいことを言い出せば切りがないし
考えの及ばない点もまだ多いのですが、敢えて幾つか。

小説の最初のページを開くと
「手記だ、当然のことながら」
と但し書きがあります。
つまりこの小説は、主人公アドソの書いた手記を、筆者が発見して発表したという形になっています(例えば、以前紹介した『反三国志』と同じような形です)。


しかしその経緯が複雑にされていて
主人公アドソの書いた手記を誰かが書き写し
それをまた誰かが書き写し
それをまた作者が書き写して、世に発表したという体裁を取っています。
なぜわざわざ、このような形を取って創作したのか。


元々アドソの書いた手記(すなわち本編の小説)は、一冊の本を巡る殺人事件についての書物であり、つまり書物についての書物です。
そしてその手記を書き写した写本は、言うなれば書物についての書物についての書物です。
さらにそれを書き写し(一部付け足し)たものは、書物についての書物についての書物についての書物です。
さらに作者によって訳され、出版されて、日本語に訳されると、書物についての書物についての書物についての…となっていき
乱暴に言えば記号についての記号が生まれていきます。
そして元々あった事物からは遠ざかり、実在さえもおぼつかなくなっていく。
あたかも
〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉
の如くです。

だから、そこには無常感がある。
アドソの辿り着く死の境地は現代哲学的で、それがまた作者の思想とも関わってくるのでしょう。