神の左手悪魔の右手

最近、楳図かずお作の長編漫画『神の左手悪魔の右手』を読み終わったのですが、それについて感じたことを幾つか書いておこうと思います。


文庫で全4巻。五話構成。
山の辺想という名の小学一年生の男の子が主人公。
想が、これから起こる事件を夢を通して予知したり
同時進行の事件を夢を通して当事者の視点で体験したり
さらには、夢を通して事件を解決してしまったりする、というのが大まかなストーリーの流れ。


この漫画のひとつの側面として、非常にグロテスクなスプラッター漫画であるということがあります。
特に第一話と第五話の残酷描写には目を見張りました。
血の描写が苦手な方は注意したほうがいいかもしれません。


けれどこの漫画にあるのは、それだけでなく
言うならば、

夢と現実の境目がまだ曖昧な子どもが、その境を曖昧にしたまま生き続けていってしまう

それがこの漫画の主題であるように思います。


夢と現実の境目が曖昧と書きましたが、想は夢と現実とを一緒にしているわけではありません。
悪夢を見て、起きた後に「あれは夢だった」と思い直す場合もあるし、夢の中で「これは夢だ」と理解している場合もあります。


問題なのは、夢が現実を言い当てている、もしくは夢が現実に影響を与えているのに、想がそれを受け入れてしまうところにあります。


想の存在は徹底的に、子どもとして描かれています。
正義感と残酷性、両方のベクトルに向かう子ども特有の無垢さ。
想が消しゴムに穴を開け、大層な名前をつけて、自分の守護神や悪魔に見立てるという描写などを見ても、彼は子どもそのものです。


例えば『漂流教室』(作者同)の主人公たちは、小学五六年生とはいえ、子どもではありません。
漂流教室』においても同様に、夢によって騒動が引き起こされるというエピソードがありましたが、そのとき登場人物たちは、それについて合理的な理屈をつけ、謂わばお互いの共通理解を作り上げました。
しかし想の場合、何か不思議なことが起こっても説明をつけようとはしません。
また、説明のつかない何かおかしなことが起こったとき、『漂流教室』の登場人物たちは「そんなばかな」と言います。
既に彼らには、あるべき世界の型が存在するからです。
しかし想の場合は、その型も、ルールも存在しません。
体験したことと外の世界の常識に齟齬が生じたとき、彼はその折り合いをつけようとはしないのです。
体験したことを「自分の思い違いだ」とも、「常識のほうが間違っていた」とも思わず、ただそのズレを放っておきます。
想にとって夢と現実はパラレルに存在を続け、その境は曖昧なままです。


だから想は、夢の現実化を受け入れます。
目が覚めたとき恐ろしいものが手の中に ―夢の中にではなく― 残っていても、彼は彼の世界をそのまま生きていけてしまうのです。



(そういえば、登場人物に「香月細子」という霊能者がいたけど、アナグラムなんだろうか
劇中で凄い(ひどい)扱われ方をしていたので気になります)



楳図のホラー長編はこれで大体読んでしまったのですが、『神の左手悪魔の右手』が最も洗練され、かつ面白かったと思います。
上述の『漂流教室』や『わたしは真悟』などは、作品としてよくまとまっていて
『14歳』には意味が分からないほどのエネルギーが、冒頭から結末まで溢れ切っています。
それに対して、『神の左手悪魔の右手』には、複雑な構成の中に、貫徹された主題があるように感じました。
(『洗礼』などもそういう面では、これに近い作品かもしれません)
その主題は、最終話冒頭の台詞に最もよく表れていると思います。


色々書きましたが、そんなふうに考えるまでもなく、ただただ面白い作品です。
小道具のセンスの良さ。
嫌悪感を覚えるほどの人体崩壊の描写。
楳図らしい台詞回しの見事さ。
サスペンスとカタルシスの繰り返しはまさに天才としかいいようがありません。