久しぶりに更新

大分、間が空いてしまいました。
一度遠ざかってしまうと、書くのが億劫になりますね。


最近読んだ本の紹介でも。

先日、京極夏彦の『邪魅の雫』を読みました。
京極堂シリーズの最新作に当たっていて、概要は連続毒殺事件を巡るミステリー。

感想ですが、シリーズの売りのどんでん返しの迫力が、比較的弱かったのが残念。
京極堂の語りも、今回はストーリーの展開上か、毒気が抜かれた感じがしました。
作品としては勿論面白いのですが、全体的に小さくまとまってしまったような印象。
次回作のタイトルももう決まっているようなので(『鵺の碑』)、そちらは大味になるように期待したいと思います。


その『邪魅の雫』なのですが、このような一節がありました。


「為政者がこれでよし、としたものだけが公式な記録だよ」
そんな莫迦なと関口は云う。
「権力者が良しと云ったら事実になるのか?歴史とはそんな都合の良いものなのか。それじゃあ偏向するに決まっているじゃないか。権力者なんてものは自分の都合の良いことしか記さないよ」
(中略)
記してあるものを凡て真実として受け止めるとするなら偽史は作り放題だと中禅寺は云った。
「いずれ――記されないものは歴史になり得ないのだ。歴史は記録されることで作られる。


この下りが、丁度いま読んでいる本に重なったので、引用してみました。
言われていることは大体三つ。
まず
“権力者の思いのままに歴史は作られる”
ということ。それは事実とは程遠いが、だからといって、権力者でないものが書いた野史もまた
“記されたまま鵜呑みにするわけにはいかない”
ということ。そして実際に何があったとしても
“記録されたものだけが歴史になる”
という三点。


京極を読む前には、北方謙三の『三国志』を読んでいたのですが、
歴史小説を読んでいると時折、展開が拘束されていることを再確認します。
負けないで欲しい軍も、実際に負けたといわれる戦いでは絶対に負けるし、その戦いで死んだとされる将は必ず死ぬ。
その自由にならない展開の中で、どう人物描写をし、どう新解釈を加えるかが歴史小説の醍醐味であるだろうとも思います。


けれど『三国志』を読んでいると、関羽が死んでからの蜀は、どのように書いても哀れに感じられてきてしまう。


丁度いま読んでいるのが、そんな気持ちを代弁するかのような小説で。
上の引用部分もその小説を読んでいて思い出したので参照しました。
小説のタイトルは『反三国志』、作者は周大荒です。
登場人物紹介を一読しただけで、他の『三国志』との違いは瞭然。


劉備 字は玄徳。諸葛亮孔明)・徐庶・龐統ら名参謀と、関羽張飛趙雲馬超黄忠ら勇将の力を得て、ついに天下を統一する。しかし、最後まで臣節をつらぬき、帝位にのぼらない。


これに対照的なのが


司馬懿 字は仲達。魏の名指揮官。深い読みと、さまざまな策略をもって漢軍に抵抗するが、つねに漢軍の後手にまわってしまう。東阿で諸葛亮の地雷により爆死する。


前置きに作者は
“権力者の思いのままに歴史は作られる”
ことを述べて正史を退け、さらに『演義』をも否定。
“記録されたものだけが歴史になる”
先例を挙げ、事実は歴史とは違うと主張します。

勿論、正史であろうと野史であろうと
“記されたまま鵜呑みにするわけにはいかない”
のですが。
政治批判等の作者の思惑は別として、夢があることは確かです。
こんな三国志が、ひとつくらいあった方が良い。


久しぶりに思い立って更新しましたが、特に何も起こっていませんので、また本の紹介になってしまいました。